平和な夕暮れを切り裂く、あの「一言」
夕暮れ時、どこの家庭でも交わされる、ありふれた会話があります。
「ねえ、今日の夕飯、何がいい?」
妻のこの問いかけは、単なるメニューの相談ではありません。
朝から冷蔵庫の在庫を計算し、栄養バランスを考え、家計をやりくりしてきた末の「最後の意思決定」を委ねる、切実なパスなのです。
それに対し、新聞を読みながら、あるいはテレビを眺めながら夫が返す一言。
「ああ、俺は何でもいいよ」
この瞬間、家の中の空気がわずかに震えるのを感じませんか?
夫側は「お前の負担を減らすために、気を使わないでいいよと言ったんだ」と、慈悲深い王のようなつもりでいるかもしれません。
しかし、妻側からすれば、それは優しさどころか、責任という名の重石をすべて背負わされる「丸投げ」に他ならないのです。
翻訳不能な暗号「何でもいい」の正体
なぜ「何でもいい」がこれほどまでに妻を苛立たせるのか。
それは、この言葉が白紙の委任状ではなく、解読不能な「要求の塊」だからです。
夫の「何でもいい」を、妻の脳内翻訳機にかけるとこうなります。
「(俺の好みを完璧に把握した上で、今の胃袋の状態にぴったりの、手間がかからないけれど手抜きに見えないものを、お前のセンスで選べ。もちろん、昨日と被るのは無しだぞ。)」
もし妻がその言葉を真に受けて、昨日の残りのカレーを出せば「またこれか」と顔をしかめ、冷やしうどんを出せば「もっとスタミナのあるものがいいな」とこぼす。
結局、夫の言う「何でもいい」は、正解のないクイズを出し、妻に全責任を押し付けているのと同じなのです。
自分自身に問いかける、手取り9万円台の夕暮れ
今の私には、献立の相談相手は自分自身しかいません。
鏡の中の自分に「今夜、何食べる?」と聞けば、あやふやな返事は返ってきません。
「今日は少し足が疲れたから、奮発して美味しい刺身でも買おうか」
「手取り9万円台、今月は少し使いすぎたから、卵かけご飯で贅沢に済まそう」
返ってくるのは、いつだって具体的で、誠実な答えです。
誰の顔色を伺う必要も、暗号を解読して溜息をつく必要もありません。
この「自分との対話」だけで完結する食卓は、なんと清々しく、自由なことか。
誰かのために悩める、あの日の「騒がしさ」
一人で食べる夕飯は、確かに気楽です。でも、かつて「何でもいいよ」という言葉に舌打ちをしていた頃を思い返すと、ふと考えることがあります。
あの「何でもいい」は、腹立たしい丸投げではあったけれど、同時に「私の作るものなら何でも食べる」という、ある種の甘えと信頼の裏返しでもあったのではないか、と。
もちろん、あの修羅場のような台所に戻りたいとは思いません(笑)。
ただ、誰かのために悩み、誰かのために包丁を握るあの騒がしい日々も、今振り返れば、人生という物語のなかで彩り豊かな一章だったのだと感じます。
最後に、旦那様方へ小さなアドバイス
もし、このブログを読んでいる旦那様がいるなら、今夜はこう言ってみてください。
「何でもいい」ではなく、「肉がいいな」でも「昨日のあれ、美味しかったよ」でもいい。
具体的な単語を一つ出すだけで、奥様の「意思決定」という重荷は半分になります。
それだけで、食卓の雨雲は晴れ、温かい湯気がもっと美味しく感じられるはずですから。
皆さんのご家庭では、この「何でもいい」という名の暗号を、どう解読していますか?
あるいは、私のように「自分との対話」を楽しんでいる方のこだわりも、ぜひコメント欄で教えてくださいね。



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